社長のつぶやき 第4回

平成17年6月8日から15日の間、娘(近々開かれる弊社株主総会で次期社長に推薦しようと思っている)の勧めもあって、ロシアの旧樺太(現サハリン)の大泊、弥満、豊原、真岡、ハバロフスク、ウラジオストック、ナホトカを回ってきた。

実は私の生まれは樺太の北に位置する敷香で、物心ついた育ちは一転南に位置する大泊より更に南の弥満と言うところで終戦の8月15日を迎え、結果的には引き上げの最終便となった8月21日に大泊港より辛うじて出航、22日に北海道稚内に引き上げてきた経緯があるので、弥満では少年の日の記憶をたどり、それと日本海側の真岡で起きた若き命を自ら絶って職に殉じた悲劇九人の乙女達の1人が親戚筋に当ることからその真岡郵便局を探しあての追悼に目的があった。

「悲劇、九人の乙女」を簡単に掻い摘んで記すと、スターリンのソ連は日本との不可侵条約を一方的に破棄し8月8日に対日宣戦布告、15日の無条件降伏の終戦後もなお侵攻を続け、20日早朝には真岡沖合から艦隊4、5隻による艦砲射撃を開始し上陸してきた。この時各方面に刻々の情報連絡に勤めていた真岡郵便局の乙女達9人の交換手はソ連兵に拉致されるのをきらい、もはやこれまでとの段階で「みなさんこれが最後です。さようなら、さようなら」と服毒し、か細く成り行く声の放送を最後に全員が自決してて果てた実話である。9人の1人には南方に転戦させられた恋人もいたとのことだ。

スターリンソ連としては火事場泥棒の急ぎ働きを地で行くごとく北海道へも侵攻し実効支配のもとせめて半分でも領土に、と目論んで居たことはその後の記録からも明らかで、この乙女達の働きの効果も有ってか、日を同じくして真岡に駐留していた日本兵が(将校1、兵6人)丸腰で白旗を掲げ停戦軍師として赴いたがソ連軍はこの全員を射殺して停戦交渉を拒否した等々、樺太の支配に手間取り北海道侵攻は成功しなかった。このことで北海道に禍根を残さなかった功績は大きい。

ソ連軍の狂暴はこれに止まらず至る所で起きたようだが、私は白ゆりを見れば沖縄の、黒ゆり(樺太、北海道の山野ではよく見られる)を見れば樺太の乙女らの散り行く哀れに思いを馳せずにはいられない。

戦後このことを知られた昭和天皇と皇后は乙女達の冥福を祈られ、稚内の「乙女の碑」を訪れ次のようなお歌を残されている。(インターネット情報で知った)

樺太に命を捨てしをたやめの心を思えばむねせまりくる

からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる

こんなことを胸に大泊では平和鎮魂之碑脇の日本人墓跡、帰路ではハバロフスクの日本人墓、ウラジオストックの本願寺跡、ナホトカの日本人墓にも尋ね私なりに追悼して参った。各地の市内外に僅かに残っていた寺社跡の石階段、壊された忠魂碑、忠魂塔も散見した。

ウラジオ本願寺跡
ウラジオ本願寺跡

今度の旅の準備で旧樺太に存在していた寺院の住所録(179ケ寺)、神社の住所録(125社)をインターネットで検索することができた。併せて、日華仏教文化交流会の末席にも所属している関係で、会編集発行の日本統治時代の台湾の寺院名簿(200ケ寺)も所持しているので、どちらももしご興味の有る方には入手のお手伝いができる。

郷里のことを申せば弥満は完全に原野と化し、僅かに廃屋が2、3目につくばかりで、2、3キロ離れたところに新しくロシア人の集落ができており、当時の小学校、神社、我が家の確かたる跡は定かでなく、ご同道いただいた懇意のご住職とのヒントで周辺の山並み、丘を見回した時に、ほとんど忘れかけていた白いカラスのことが蘇った。

当時この白いカラスは、丘の左端の岩から右の山裾へとかなりの時間、多分30分ほどかけて黒いカラスに追いたてられながら消え去ったもので、もちろんカァ~カァ~と鳴いており、当時の弥満の人々は皆この情景を見聞していた事実である。

この丘、岩まで近づき再度眺め我が家の辺りを想像するのみにとどまったが、カラスの事はご同道の住職様、ガイドには信用されていないようだった。このページがもし当時の弥満居住の方々にも届き、ご一報頂ければ望外の喜びだ。

私にとって最も楽しかったのはシベリア鉄道の末端部ハバロフスクからウラジオストックまでの2等寝台での夜行の旅だったと思っている。移り行く窓外の風景、夜食をはさんだ素朴なロシア人との強引な交流だったかも知れない。

(注) 艦隊出現の様子や停戦交渉のくだり、乙女自決の様相に関しては当時少年だった私はうろ覚えながら聞かされていたが、文章に見る情景や数値等の具体例は2年遅れで帰国した父達の話や、長じて書物で知り得た事柄を混じえて文章にした乙女達の集団自決の前後にまつわる顛末はソ連軍の横暴等も含めて涙なくしては聞けない記述もあるのだか割愛した。